創業25周年...vol.1

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全国のKino-izmファンの皆様
こんばんは☆
去る5月3日でキノハウジングは25周年を迎えました。
思い返せば住宅産業の業界に入ったのは22歳の春、1986年でした。
入社したのは地元の中堅住宅会社、賃貸のあっせんから不動産仲介、分譲住宅販売、注文住宅、ビル・マンション、そして公共工事まで総合的に取り扱う住宅会社でした。
新聞の朝刊に掲載された求人広告を見て面接を受けた際に、当時の社長さんから、「うちの会社で将来どんな風になりたいか?」という質問をされたのですが、「一人前になったら独立したい!」と明確に答えました。
社長さんは「おぅ気に入った!明日から来てください。」とおっしゃったことを今でも覚えています。
「こんな奴は過去にもこれからもおらんやろ」とも笑いながら話されたことも覚えています。
本来は不動産を取り扱う営業マンを望んでいたのですが、配属された部署は分譲地の建築条件付きの土地販売と完成済みの分譲住宅を販売する部署でした。
そこに配属され業務を一から教えてくださったのが師匠とよんでいます現在㈱三浦不動産・社長の三浦氏です。
当時は展示場や本社で商談することよりもお客様のお宅へ訪問して商談することの方が遥かに多くて、夜訪も頻繁にしていました。
夜遅くの訪問でも三浦氏は快く時間を作ってくださって私と同行してフォローしてもらった。
一日でも早く一人前になりたかったのでどのようなことでも惜しまず率先して行いました。そういうところも三浦氏が理屈で教えるのではなく、先にご自身で実行して教えてくださったことは今に活きています。
勤続2年目に初めて誰のアドバイスももらわず提案してプランをお客様に大変喜んでいただき、採用されました。
完成したその住まいを見て、「自分が考え、提案したプランがカタチとなって残っていく」ことへ大きな喜びとやりがいを感じました。
今思うと、不動産の仲介部署に配属されていたらキノハウジングは無かったかも知れません。
昭和~平成へとバブル経済の成長とともに務めていた会社の分譲地もなくなり、分譲営業部の仕事が少なくなってきた状況で、三浦氏が独立しました。
それまで、営業部として会社へ意見してくれていた三浦氏が居なくなったことで私が会社に要望を上げるようになってなかなか思うように進まなくなりました。
時代はバブル絶頂期、不動産営業部は朝10時前に出社、18時には事務所を占めて夜の街へ、、、一方私たちは22時を過ぎる日もザラでした。
そんな時に三浦氏に相談し、三浦氏の下で活動することとなりました。
「将来は地元で独立する」と硬い約束をしたのが平成2年3月(1990年)でした。

そして、1998年5月、今の地にキノハウジングを創業しました。34歳の時です。
IMG_3956_600.jpg

当時は注文住宅なんで実績のない会社に依頼してもらえる状況ではなかったし、仕方なく不動産を取り扱いながら小さなリフォームなどをお引き受けしながら少しづつ実績を積み上げていきました。
「キノハウジングを立ち上げました、独立しました」と私に住まいの建築を依頼してくださった過去のお客様にご案内を出したところ、「木野君、うちの家、リフォームして」という声が立て続けに7~8件ありました。
その中でリビングを改装するお宅で外周部分の壁をめくったところ、断熱材が真っ黒になっており、しかも下がり落ちていました。
柱や土台は触るとしっとりと湿っていました。うっすらとカビも発生している状況を見て、「これはなんでやろ?」と思ったのです。
当時は結露に対する知識も全くありませんでしたから、いろいろと調べて結露が原因ということを理解するまで多くの時間を掛けました。
これが現在のKino-izmの原点です。

まだまだ長くなりそうなので今日はこの辺で終わります。
また続きはブログに記します。


ほな、また、、、
木野芳弘の後悔しない注文住宅ブログ
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